NICO Touches the Walls『QUIZMASTER』とツアー追加公演に対する感想

NICO Touches the Wallsの7thアルバム『QUIZMASTER』を聴いて、この人たちはやっぱりロックバンドだなあ、バンドしているなあと改めて思った。

 

先日リアルサウンドに寄稿した記事では主にサウンド・アレンジ面の話をしたが、あのアルバムを聴いてまず驚いたのは、光村龍哉、すっごい歌詞を書くようになったなあ、ということ。「bless you?」という曲が現時点で一番好きだ。

 

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自分の中にある闇みたいなものをここまで曝け出すの、私にはできないし、多くの人にとって抵抗のあることだと思う。だって他人に知られたくないじゃないですか、自分がどれほど暗い人間なのかということなんて。このように『QUIZMASTER』は、光村が自分自身と向き合いながら制作したことが分かるような、内省的な曲が多い。アルバム全体のテーマは「人生の謎」だという。

 

何年か前のインタビューで光村が、バンドそれ自体よりも曲が後世に残ることの方が大事だという話をしていた憶えがある(引用元が不明瞭で申し訳ない)が、おそらく今はそういう考えではないのだろう。人によっては、いち個人の考え・心情をバンドの曲として演奏する(させる)ことに抵抗があるというソングライターもいるし、こういうパーソナルな作品の場合、自分一人で作り上げるという手もありはしたはず。しかし光村は現状、ソロ活動や楽曲提供といったNICO Touches the Walls以外の音楽活動を行っていないし、実際出来上がった『QUIZMASTER』はあくまでバンドサウンドによる作品だった。それは彼がバンドを、ニコを強く求めているということだと思う。

 

また、アルバム中唯一作詞が対馬の単独名義である「サラダノンオイリーガール?」は「どうして女の子はダイエットをするんだろう?」という非常に素朴な疑問がテーマとなっており、光村ならば絶対に書かないであろうお茶目なワードが並んでいる。対馬特有の明るさというか、この曲のある種の軽さによって、煮詰まり気味だった光村は「肩の力がふっと抜けた」らしい*1

 

バンドを通して自分自身の問題と向き合うことを対馬や古村、坂倉なら許してくれるだろうと、光村は信じている(というと綺麗な言い方すぎるか。「甘えている」の方が正しいかも)。3人は3人で「みっちゃんはこうだから」というのが分かっているというか、それこそがニコの核なのだと認識している感じがある(だからどれだけバリエーションが豊かになろうとも、全曲歌を聴かせるようなアレンジになっている)。互いを補い合いながら、一塊になり、同じ方向に向かうということ。ニコがそのような関係性によって形作られているバンドなのだということが楽曲越しに透けて見えたから、私はこのアルバムに対して、そして彼ら4人に対して、ああ、ロックバンドしているなあと思ったのだ。

 


 


本当は、上記の話を踏まえたうえでサウンド・アレンジ面の話をしたかった。だからここで先述の記事へのリンクを貼ることにする。

 

realsound.jp

 

NICO Touches the Walls TOUR “MACHIGAISAGASHI ’19”」初日公演(3/25)で、光村が「自分のような人間は音楽でしか人とコミュニケーションがとれない」という話をしていたが、裏を返すとそれは、(『QUIZMASTER』収録曲で描いているように)これだけ不安や情けない思いを抱えていたとしても、音楽だけは諦めたくはないのだという意味になる。

 

ニコとアコの並行稼働や、多種の楽器を演奏できるサポートメンバーの導入などを通じて、バンド従来の強みである「アレンジ力」をさらに強化させたこと。そうして曲を演奏する時に採れる選択肢を増やし、ロックバンドとしての可能性を追求してきたこと。その際、人力で演奏することに強いこだわりを見せていたこと。その背景には音楽家としての創作意欲や情熱のみならず、「音楽だけは」という切実な気持ちがあったのではないだろうか。そしてそれは、6thアルバム『勇気も愛もないなんて』で音楽に対する「勇気」や「愛」として定義づけられたものでもある。

 


 

 

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ライブの話に移る。


6月8日に行われたツアーの追加公演=TOKYO DONE CITH HALL公演には、ここ数年、彼らが向き合ってきた「自分たちはロックバンドとしてどう生きていくか」という決意や覚悟がダイレクトに表れていた。

 

1曲目に「2nd SOUL?」が配置されている時点でもう、そうとしか言いようがない。

 

ゴミだらけ 手垢まみれ
残り物みたいな魂
風まかせ じゃ勿体ないぜ
底なしを描け 理想 

 

曲作りに伴う苦悩と、闇に腕を突っ込んで光の断片を手繰り寄せるような感覚、そうして唄い続けていくのだという決意を綴った言葉。「ボヘミアン・ラプソディ」並みのドラマティックな展開も相まって、ライブが始まったばかりにもかかわらず、胸がいっぱいになってしまった。

 

そのあとに続いた『OYSTER -EP-』『TWISTER -EP-』収録曲は、「『QUIZMASTER』以降」を感じさせるようなアレンジに変わっていたし、『QUIZMASTER』収録曲群に関しても、情報量多めな印象を受けた初日公演とは打って変わって、交通整理の行き届いた、洗練された演奏になっていた。人力での演奏にこだわるこのバンドにとって重要な要素となりつつある対馬・古村・坂倉によるコーラスもさらに良くなっている。2012年の「夢1号」リリース時、ライブで同曲のイントロを披露していた時はところどころ不協和音気味になっている感じも否めなかったが、今ではアカペラでハモれるほどである。オフマイクかつ歌声+手拍子のみで披露したアンコールの「3分ルール?」、見事な安定感だった。

 

ニコは『QUIZMASTER』において、「人生の謎」に対して何か答えを言い当てているわけじゃない。モヤモヤした感情がスッキリ晴れるようなことはなく、ひたすら、モヤモヤした感情のまま唄われている。このアルバムは言ってしまえば全然ポップじゃない。しかしその全然ポップじゃないアルバムに対する感想を

 

光村「アルバムは聴いてくれましたか? いかがでしたか?」

 

と訊かれた際、観客は長い長い拍手で応え、光村が「泣きそうになる。頑張って作って良かった」と言って顔をそらしたあとも、いっそ泣かせてしまおうぐらいの勢いでさらに拍手を送っていた。その反応や、この日の会場の空気から鑑みるに、ニコがこういう性格のバンドなのだということ、ああだこうだと悩みながらどうにか生きていくタイプのバンドなのだということはきっとみんな分かっていたのだと思う。そしてその「みんな分かっている」ということに、メンバーももうさすがに気づいている。だからこそ、光村は本質以外の部分を削ぎ落とすような歌詞を書くようになったし、バンドはどんどん大胆かつ自由な音を鳴らすようになった。

 

そんなタイミングだったからこそ、既存曲がどれも核心的に聴こえたというか、伏線回収っぷりがすごかった。

 

『QUIZMASTER』収録曲の歌詞には「夢」という単語が頻出するが、原曲よりも大人びたアレンジに変わった「TOKYO Dreamer」には、叶った夢・叶わなかった夢・その上で生まれた新しい夢の存在を認めながら、孤高の戦いを続けるこのバンドの姿が投影されていた。『QUIZMASTER』のリード曲「18?」の1曲前、という重要なタイミングで演奏されたのは、これまでにもここぞという時に登場する機会の多かった「Broken Youth」。空っぽな理想も紛い物な愛も振り切るような爽快なサウンド、堂々と掲げられた勝利の宣言にグッときた。この日最後の演奏曲が「demon (is there?)」だったのは予想外だったが、この曲、過去のアルバム(4thアルバム『HUMANIA』)の収録曲だということが不思議に感じられるレベルで、今のニコに似合う言葉ばかりが詰まっている。間奏にある古村による長尺のギターソロは溢れ出す光みたいに美しくて、ああ、この曲は救いの曲だったんだなあと感じ入ってしまった。

 

調子の良い時も悪い時もニコのライブにはいつもこのバンドの生き様が映っていたが、それでも、セットリストそれ自体にここまでドラマ性があったのは今回が初めてだったように思う。3年前に言っていた「NICO Touches the Wallsというロックオペラを作ってみたい」という話、いよいよ実現しつつあるのではないだろうか。

 

 


 


とはいえ、前回のアルバムから3年、というのはやはり長かった。なぜかというと、序盤に少し触れたように『QUIZMASTER』の核にあたる部分――「自分たちはロックバンドとしてどう生きていくか」という問いに対する解には『勇気も愛もないなんて』の時点で辿り着いていたはずだからだ。それにもかかわらず、この3年の間、リベンジしたり、ファイティングしたり、ニコとアコの両方をやって1曲の新曲を発表するのに2倍の労力がかかるやり方を採用したりしていたわけで。……そう考えると、引き出しの多いバンドではある一方、つくづく不器用な人たちだなあと。直線最短距離で突き進んでいるところ、そういえば見たことないかもしれない。

 

これだけ面倒くさいバンドに惹かれてしまったこと、それが幸運だったのか不運だったのかは正直よく分からない。分からないが、こんなアルバムを聴いてしまったら、あんなライブを観てしまったら、ロックバンドはやっぱりいいぞと叫びたくなってしまうんだ。いやあ、これは困るなあ、とこぼした時のその表情がいつもより若干緩んでいたとしてもどうか放っておいてほしい。

  

 

youtu.be


 


追伸:
5thアルバム、6thアルバムのリリース時にもああだこうだと書いた。こうして見ると、私がニコに求めているもの、彼らのどこに惹かれているのかという部分は、ずっと変わっていないんだなあと思う。

 

www.yumeco-records.com

 

8suka-blog.hatenablog.com

 

 

 

剣を握れ

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いわゆるいじめられっ子だった。

 

朝登校すると上履きには画鋲が入っていたし、机の中に入れていた教科書やノートはいつの間にかゴミ箱に捨てられていた。すれ違いざまに「死ね」と言われたこともしょっちゅう。

 

だけど幸い私には、それでも友達になってくれた人が何人かいた。その何人かのうち、私がいじめられるようになった時、真っ先に声をかけてくれたのがNさんだ。休み時間に来るたびにNさんと私は、屋上は立ち入り禁止になっているうちの学校の、めったに人が来ない踊り場で、ふにゃふにゃのゴムボールでキャッチボールをしながらおしゃべりをするようになった。Nさんは賢い人だった。成績もよくて、小学校を卒業した後は高偏差値で有名な私立中学に進学していった。そんな彼女がある日、ふとこう言った。

 

「蜂須賀さんは勉強をしたらいいよ。勉強、向いていると思う」と。

 

当時の私はどちらかというと勉強が苦手なタイプで、テストでもそれほどいい点数を取ったことがなかった。だから何を言っているんだろう?と思ったし、そもそも勉強に向き不向きもあるのだろうかと不思議に思ったけど、Nさんのことは信頼していたから、彼女が言うならやってみようかという気持ちになった。

 

程なくして、どの教科においてもテストで90点以下を取らなくなり、成績表の内容が一気に変わった。特に漢字の50問テストはいつも満点だった記憶がある。結果が出るまでは半信半疑だったけど、やっぱりNさんはすごいなあ、と感心したのだった。

 


 


Nさんとは小学校を卒業してから一度も会っていないし連絡もとっていない。しかしNさんは私にとって大切な友人だったし、かけがえのない存在だった。彼女がいなければ、あの大学に進学することもなかっただろうし、今こういう職業にも就いていなかったかもしれない。

 

時々立ち止まって考えることがある。Nさんが私にもたらしてくれたのはいったい何だったのだろうか、と。そして私は、そうだ、学歴と剣を授けてもらったのだ、と考えるようになった。

 

いじめられていた側だった私には、いじめられるようになった理由を正確に把握することはできないが、「何となくパッとしないこと」が原因だったんじゃないかなという自覚はあった。性格が明るくないから、場を盛り上げるようなムードメーカーにもなれない。運動オンチだし、足も遅い。容姿も整っていない。女の子らしくもない。そんな具合に目に見える「キャラ」がない、というか。イマイチどんくさい、というか。

 

あの人たちが私のことを気に食わないのも、正直なところ、よく分かる。だってそういう自分のことが一番嫌いなのは、私自身なのだから。そういうふうに考えてしまっていた。

 

そんななかで私は、あの人たちよりも勉強ができるようになった。強烈な劣等感から、いじめられるようになった原因を自分の内側に求めていた私が、「勉強ができる」という点に関しては「あの人たちよりも優れている」という自信を持てるようになった。振り返れば、それはかなり重大な変化だったように思う。

 

あの人たちが私の上履きに画鋲を入れるために早起きをするのに対し、私は新しい公式を憶えるために早起きをする。

 

教科書やノートをゴミ箱に捨てるのは、教科書やノートがもたらす価値、ひいては知識の体得が如何に人生を豊かにさせてくれるのかということを、あの人たちが分かっていないからだ。かわいそうに。

 

それに私は「死ね」よりも美しい言葉をたくさん知っている。だからあの人たちが濫用しているその言葉を、周りの人に使わずに済んでいるのだ。

 

そんなふうに考えながら日々を過ごし、「いや待てよ、そもそも何人たりとも“いじめられてもしょうがない”なんてことはありえなくない?」という真っ当な疑問を真っ当に抱けるようになるうちに、いじめはやがてなくなった。いじめがなくなったのは、私をいじめるのがつまらなくなったからなんじゃないかと思う。私はあの時、自尊心という剣を手に入れたことにより、人としての誇りを取り戻すことに成功したのだ。

 


 


一方、「書く」行為を仕事にし、それを続けていくうちに、私のやっていることは必ずしも剣を振り回すことではないのかもしれないと思うようにもなった。例えば勉強を頑張るにつれてNさんと共有できる話題が増えていったのと同じように、知識を増やしたり知見を広げたり感性を鍛えたりすることは、他者との共通言語を獲得するということでもある。また、それを曝け出す「書く」という行為にはフィルタリング機能が備わっているというか、書けば書くほど、自分に何となく合う人が集まってくるし、合わない人は寄ってこなくなるなあと実感するようになった。

 

Nさんが私に伝えたかったのは、どうでもいい他者に対するマウントの取り方ではなく、心地よい関係を築ける友人の見つけ方であって、自分が呼吸のしやすい場の作り方だったのかもしれない。

 

そういうふうに考えられるようになったのはつい最近の話だけど、ともかく、今は以前よりも殺気だった目つきをしてキーボードに向かってはいないです。隙を見せたくなくって、これまでは計算式でゴリゴリに固めた文章ばかり書いていたけど、最近は、読み手に解釈を委ねるような、余白のある文章を書けるようにもなりました。

 

 

 

 

文章を書くのは、苦しいけど楽しいです。生きてる!って感じがする。

 

 

 

ネタバレ問題

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タイミング的なことなので単なる偶然なのだが、特に今年に入ってから、ネタバレに配慮して書かなければいけないライヴレポートの仕事をする機会が多い。ネタバレに配慮しなければならないライヴレポートとはつまり、ネタバレ解禁のタイミング(多くの場合はツアーファイナル)より以前に掲載される、ツアーファイナル以外の日のライヴレポートだ。演奏曲や演出、MC、ステージセットなどについて、事前に先方から「これは書いてもよい/これは書かないでほしい」的な指定があるケースがほとんど。因みにここで言う先方というのは、メディアサイドではなくアーティストサイドのことを指す。

 

 

 

以下、「私の場合は」という前提で書きます。他のライターがどうかは知りません。

 

そういうレポを書くのは大変なのか、それとも普通のレポとさほど変わらないのか、というところは正直ライヴを観終えるまで分からない。「このライヴはこういうライヴだった」「それならば伝えるべきはこれだ」という結論はライヴを観始める前に出すことができないからだ。当たり前だが。

 

その「それならば伝えるべきはこれだ」が原稿を書く上での柱になるわけだが、その柱の根拠となる部分にはしっかり触れておかないと、抽象度の高い、ふわふわの原稿になってしまう。例えば「ニューアルバム収録曲の存在により、ライヴ全体がさらに良くなった」という話をしたいのならば、ニューアルバム収録曲がどのように演奏されていたのかを書いたほうが説得力のある原稿になるでしょう。周りを固める土がゆるゆるだったら、柱はやがて倒れてしまう。

 

ライヴを観ながら柱を考え、土として利用できそうな場面を判断する。そのなかで生まれる自分の中の「これは書きたい/これは別に書かなくてもよい」が、先方から提示される「これは書いてもよい/これは書かないでほしい」とどの程度一致するか、で書きやすさが変わる。土として利用する必要のある曲の数はライヴによって変わるし、何だったら、無理に曲名を出さなくても十分であるケースもある。

 

しかし、そこを擦り合わせることができればすべて解決なのかというとそうでもない。なぜなら、そこにはライターの都合とアーティストサイドの都合しか存在しておらず、今後ツアーへ行く予定だがまだ行けていない人への配慮がないからだ。

 

「このライヴはこういうライヴだった」「それならば伝えるべきはこれだ」というふうに考えていくと、必然的に、そのライヴの核(その核が的外れである可能性もあるけども)に触れるような内容にどんどん近づく。そうなると「いや、それを言ったらおしまいじゃない?」というポイントに自分でも気づかずに触れてしまう危険性が高くなるが、ここで気をつけなければならない。例えば、「カメラを止めるな!」と明日観るつもりだと言っている人に、あの作品の仕掛けについて先に教えてしまうのはタブーでしょう。スペースをいただいて取材をさせてもらっているライターよりお金を払って観に来た観客の方が偉いに決まっている。だから自分の脳内にはライターとしてのOKNGラインのほかに、観客としてのOKNGラインを設けなければならない。そのうえで、観客としてのOKNGラインを、ライターとしてのOKNGラインよりも優先させなければならない。

 

ネタバレ問題は非常にデリケートだ。なぜなら、ひとつの情報をネタバレと捉えるかどうかは人によって違うからだ。ひとつのレポを書く場合、ライターは私自身ひとりだけであり、アーティストサイドの意向もひとつである(もちろん最初はチーム内で意向がバラバラな可能性もあるが、こちらにオーダーする段階になったらさすがにひとつに固められている)。しかし、観客の数は未知数、∞だ。こちらがどれだけ配慮しようとも、すべての人に納得してもらうのはまず無理である。

 

以前、「曲名はひとつも出さないでください」「MCにも一切触れないでください」「ステージセットや演出もダメです」というオーダーがあり、いったい私に何を書かせたいのだろう、と疑問に思った。未知数である観客すべてをカバーしようとするとそういう無理が生じてしまうのだと思う。

 

だが考えてみてほしい。ライヴレポートとはそもそもライヴの内容をレポートするための記事である。また、ネタバレのリスクを冒してまでやるのならば(まあそうでないにしても、だけど)、ほとんど内容のない、薄っぺらい記事にはしたくないでしょう。「誰にとってもネタバレゼロ」なんてものは幻想にすぎない。実体の見えない観客への配慮は、度を越えると、目の前にいる観客に無益な情報を提供することに繋がる。

 

ネタバレ解禁以前に掲載される、ツアーファイナル以外の日のレポを書く時のこだわりとして、私は必ず本文中の、本題を始める前の段階で「ネタバレしています。ご注意を」的な注意書きを入れるようにしている。また、公開された記事をSNSで宣伝する際には「●曲ネタバレしています」と数字で伝えるようにしている。なぜそうするのかというと、ライターになる以前の頃、見たくもないネタバレを見てしまったことがあったからだ。だから自分が書く側になった時にはそういう事故をできるだけ減らしたいと思った。というか、そういう気の遣い方をすることは書き手としてのひとつのマナーだと思っている。

 

とはいえ、繰り返しになるが、観客の数は未知数、∞。どれだけ配慮してもすべての人に納得してもらうのはまず無理である。だから私の言うこだわりとやらも「せめてできることを」ぐらいの対策でしかない。

 

例えば、「1曲ネタバレしています」と言っても、その1曲の重みは曲によっても違うし人によっても違う。ニューシングルのレコ発ツアーでそのシングルの表題曲をやったことを書いた場合、私(の脳内にいる観客としてのOKNGライン)の基準で言うとそれは「まあやるだろうね~」と予測できる範囲であり「大してネタバレにならない」という判断になる。一方、ライヴでめったにやらないレア曲の場合は意外性があるため、よりネタバレ度が高いという判断になる。逆に、このバンドに関してはもうセットリスト云々の次元じゃないよね、っていう人たちもいる。だけどそれは私(の脳内にいる観客としてのOKNGライン)の基準での話。そもそもツアーとかレコ発という概念をよく知らない人もいるだろう。また、単純な曲ごとの好き嫌い、その人にとっての重要度の差異みたいなものは誰にでもあるから「セットリスト云々の次元じゃない」なんて自分自身に対してしか言ってはいけない言葉だと思う。

 

あと、こちらが本文中の早い段階で注意書きを書いているにも関わらず、SNSでその記事を引用しながら「うわ、ネタバレ見ちゃったよ。最悪」という旨の発言をする人もいる(しかもわりと多い)。文章を読めない人に太刀打ちすることは私の仕事ではないから本来は太刀打ちする必要などないのかもしれないが、一応「少しでも事故を減らす方法」として、最近はその注意書きを文章の一番先頭に持ってきていたりする。

 

そう。「少しでも事故を減らす方法」であって「事故をゼロにする方法」ではないのだ。何が言いたいかというと、こちらでできることは限られているのだ、ごめんよ、という話です。SNSのタイムラインに直接書いてある情報を避けるのは難しいかもしれないが、メディアから発信される大抵のレポはワンクリックを挟むはずなので。ライヴレポートとはそもそもライヴの内容をレポートするための記事のこと。摂取する情報/あとで摂取する情報/摂取しない情報の判断および分類はどうかご自身で。