enjii

蜂須賀ちなみの日記帳

「映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を観た

※今回の記事は、「映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」の感想です。ネタバレ回避希望の方は、閲覧をご遠慮ください。

 

 

doraeiga.com

 

 

 

f:id:enjii:20170311182701p:plain


〈みんなが主役〉という価値観の下、各キャラクターの個性と確立させてきた流れが前作「映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生」(2016)までにはあったけど、打って変わって、今回はストーリーの質で勝負に出た感じ*1。明確にここを「映画ドラえもん」の転換点にしようとしている印象だけど、そういうふうに舵を切ることができたのは声優陣交代(2006年)以降試行錯誤しながらも受け継がれてきた「ドラえもん」の哲学を自分たちの作品の中にしみこませる作業をちゃんとやれたからこそだろうし、逆に今までそこに注力してきたからか、ここまで純SF的な物語を描くことは2006年以降の新ドラシリーズが避けてきたことでもある。だから、どちらが偉いとか、そういう話ではないんだけど。

 

「暑いからずっとかき氷を食べていたい」という理由でのび太たちが南極へ行き、そこから大冒険へ繋がっていく――という流れを軸にした物語は、〈サイエンス・フィクション〉という本来の意味のSFに回帰した正統派のもの、そんな中で、例えばドラえもんのメタファーであるユカタン&モフスケを登場させたり、「いったん自分の家に帰ってもう一度南極へ出かける」という場面を挟んで藤子・F・不二雄的な意味でのSF(〈少し・不思議〉)を体現したり、過去作のオマージュか?と思わせるシーンがあったり……と、「ドラえもんに対する愛情が読み取れる場面も各所にありました。今回の作品のことを「ドラえもんの皮を被った何か」みたいに言っている人もいるらしいけど、その点に関しては明確に否定したい。

 

とはいえ、ストーリー重視ゆえに基本的に温度感がシリアス&アカデミックなんです。秘密道具のすごさよりも自然の猛威が勝ってしまう、容赦ない感じ。「ひとつの惑星を救うにはもうひとつの惑星を見捨てなければならない」というリングの設定。普段より大人びた性格ののび太(かき氷を食べ過ぎておなかを壊す、半袖で南極に出かけて寒さに震える、などのお約束的なボケ描写がなかった)。ダイジェスト版になって届けられる探検シーン……。

 

メインターゲット層がそこであるはずなので、映画ドラが公開されるとやっぱり〈ちびっこが楽しめるのか問題〉がつきまとうわけだけど、そういう意味で最も気になったのは、子どもたちがワーキャー盛り上がれるような分かりやすい山場がないこと。「10万年」「南極」という舞台設定が後々効いてくるタイプのストーリーなんだけど、そのせいか、全体的に説明に時間をかけすぎていて、結果、起伏に欠けるというか。それに加えて、せっかく「~日本誕生」で開花した各キャラの性格が死んでいたり(特にしずかちゃんは人形かよレベルで動かないし、かわいさが炸裂しているわけでもない)、ゲストキャラとの絡みが少なかったりしたので*2、正直鑑賞後には物足りなさが残ってしまいました。ストーリーはあれだけ丁寧に描けているんだから、登場人物一人ひとりのことももっと的確に捉えてほしかった(そこに尺を割いてほしいという意味ではなく、台詞や人物の動きをもっと工夫してほしいという意味です)。

 

それで、公開前から話題になっていたポスターのデザインや物語のテイストなどから、「もしかして大人ファン層の意識した作品だったのでは?」と私も途中までは思っていたのですが、おそらく今回の作品は〈数年後の子どもたち〉に宛てたものなんじゃないかなと。スノウボール仮説やタイムパラドックスなどは小学生以下の子どもたちにとっては難しくて理解しづらいかもしれないけど、もう少し年を重ねたあとにこの作品を思い出したり観直したりした時に、新たな発見が得られる可能性もある。キャッチコピーには「本当の友だちと、ニセモノの友だち。何が違うんだろう。」「その友情は、10万年先まで凍らない。」というものもあったけど、10万年前のドラえもんのび太へのメッセージを氷の中に託したのと同じように、この作品自体が〈数年後の子どもたち〉に宛てられたタイムカプセルなのでは?と思ったのでした。本当の友情が時を超えるのならば、本当の物語もまた、時を超えていけるはず。

 

 

 

 

*1:監督・脚本は高橋敦史氏。「千と千尋の神隠し」監督助手、「青の祓魔師 ―劇場版―」監督等

*2:でもカーラ&博士と思いの外あっさり別れた点に関しては、ここ最近の〈大人でも泣ける〉みたいな風潮に対してのアンチに見えて痛快でした。無理に感動を狙いにいかない感じが好感度高い