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蜂須賀ちなみの日記帳

若林正恭「ナナメの夕暮れ」と、クリープハイプ「泣きたくなるほど嬉しい日々に」と、ラブソングを書けない私

 

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朝起きたら指先が冷たくて、ああ、冬が来たんだなと思った。今年は例年より暖かかったから、スヌードをするのは今日が初。ぐるぐる巻きになって外へ出たら、ふと、元交際相手の匂いがした。体臭の発生するしくみとかよく分からないけど、スイーツが好きな人だったから、砂糖の粒が血液にまで入り込んでいたのかもしれない。その匂いは、あの頃よりもやたら甘く感じた。

 

プリンを持って行ったら大抵のことは許してもらえたなあとか、そういうことまで一気に思い出してしまうのだから、嗅覚って妙にリアルで残酷だ。彼と別れたのはもう2年前の話で、去年はこんなふうに気づかなかったはずなのに、どうしてなんだろうね。キュッとなった心臓のまま、泣きそうになった時はトイレに逃げ込んだりしながら、なんとか仕事を終えて帰宅して。もう使わなくなった香水を六畳間の空気中に吹きかけて、その中でスヌードを思いきりぶん回した。

 

 

――というふうに書き始めてみたら、何だか気持ち悪くなってしまった。今の話は全部事実で、フィクション要素は一切ないのに、このストーリーが自分のことなのだと思いたくないほど、気持ち悪い。しかもこの話はここで終わりではなくて、今日そういうことがあったのだと、女友達にLINEするまでがワンセット。

 

うっわあ。痒い! 恥ずかしい! できることなら時間を巻き戻してスヌード着用前に香水をぶっかけるようにしたいし、それができないならせめてLINEを送るのだけはやめにしたい。何浸っちゃっているんだろう。バカみたいだ。

 

こういうふうに考えすぎてしまうことを自意識過剰と呼ぶのだろう。そうすると大抵の人は「人の目を気にしすぎなんだよ」「誰もあなたのことをそんなに見てないから」と言ってくるのだが、違う、そういうことじゃない。オードリー若林正恭・著の「社会人大学人見知り学部卒業見込」に書かれている言葉を借りるならば、たとえ誰も私のことを見ていなくても、私が、私を見ているのだ。

 

私が、感傷的な気分になり過去の恋愛を思い出す私に違和感を抱くのは、私が、そういう自分を内心恥ずかしいと思っているからで。若林氏が、スタバでグランデを頼むことができないのは、彼が、「うわあ、こいつグランデなんか頼みやがって気取ってやがる~」というふうに心のどこかで思っているからなのだ。

 

 

本を読んでいて、共感する部分や素敵だと感じる表現を見つけたら、そのページの角を折る癖がある。「社会人大学人見知り学部卒業見込」を読んでいる時は3~4ページにつき1回の頻度でそうしていたが、一方、その続編的な位置づけにある「ナナメの夕暮れ」を読んでいる時、折ったページは全体量の50分の1に満たなかった。どうしてか。書いてある内容のほとんどが理解できなかったからだ。

 

この2冊のエッセイ――要するに「ダ・ヴィンチ」での連載――で描かれているのは、社会の通念にどうも納得できず物事を斜めに見てしまいがちで、ゆえに他人のことも自分のことも否定的に見てしまいがちだった人間が、そういうやり方、世界の見つめ方を徐々に変化させていく過程。終盤に結論として書かれていた「合う人に会う」ということは多分私にとっても大切なことで、それができたら人生は穏やかで幸福なものになるんだろうなあということは何となく分かる。でも彼のように、休日に仲間とゴルフに行ったり、キューバへ一人旅に行ったりするようなことは、今の私にはできないと思ってしまう。「ゴルフ?w」「キューバ?w」っていう、自分の声が聞こえてくる。

 

これと似たようなことを、クリープハイプの最新アルバム「泣きたくなるほど嬉しい日々に」を聴いた時にも思った。そもそも宣伝の時点でこれまでとは明らかに違っていて、きっと既存ファン以外の層にも広く深く届くような作品が生まれたのだろうなあということは想像できた。しかしそれでも、Twitterで配信されていた世紀末の描き下ろしによる4コマ漫画とか、特設サイトに掲載されていた燃え殻の寄稿文とか、私にとってはどうしても痒いものだった。

 

こういうふうに言うと、これまでのクリープハイプが居なくなったわけじゃないよ~とか、棘や毒がなくなったわけじゃないよ~とか言われるし、いろいろなディスクレビューを読んでみても大抵そういうことが書いてあるのだが、別に彼らに対してどうこう言いたいわけではなくて、ただただ、自分が情けないだけだ。今の彼らの視線はナナメではなく、真っ直ぐで。そうか、社会を生きるいち個人として、あるいは一人の物書きとして、随分先に行かれてしまったのだな、と思ってしまうものなのだ。海の日に海なんて行けねえ~!!!

 

 

Twitterで人気のエッセイストが書いた小説を、最後まで読むことができなかった。140字の中でムードと匂いを楽しむ分にはいいのだけど、それ以上だと長すぎて、ゲホゲホとむせてしまう。

 

アクセサリーをプレゼントされても「そういうの本当に無理なんです」と言いながら返却してしまう。あなたのことが嫌いだから、という理由で断っているわけではない。これがなかなか理解してもらえない。

 

基本的に「形から入る」みたいなことができなくて、ランニングウェアが欲しいのに買えない。ランニング始めてから1年以上経っているし、今使っている謎のシャカシャカパンツは汗で張り付くタイプで、かなり不便に思っているというのに。

 

若林正恭は40歳で、尾崎世界観は34歳。歳を重ねればこんな私も少しずつ変わることができるのだろうか。その変化を、許すことができるようになるのだろうか。

 

「ナナメの夕暮れ」が多数のメディアで大々的に取り上げられるほど面白い本なのかどうか。「泣きたくなるほど嬉しい日々に」がみんなこぞって絶賛するほどの名盤なのかどうか。

 

今の私には、その答えが分からない。

 

 

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 

 

 

 

 

P.S.  この文章を書くにあたって、そういえば両者には接点があるのかな~と思って調べてみたら、既に対談していたようです。