剣を握れ

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いわゆるいじめられっ子だった。

 

朝登校すると上履きには画鋲が入っていたし、机の中に入れていた教科書やノートはいつの間にかゴミ箱に捨てられていた。すれ違いざまに「死ね」と言われたこともしょっちゅう。

 

だけど幸い私には、それでも友達になってくれた人が何人かいた。その何人かのうち、私がいじめられるようになった時、真っ先に声をかけてくれたのがNさんだ。休み時間に来るたびにNさんと私は、屋上は立ち入り禁止になっているうちの学校の、めったに人が来ない踊り場で、ふにゃふにゃのゴムボールでキャッチボールをしながらおしゃべりをするようになった。Nさんは賢い人だった。成績もよくて、小学校を卒業した後は高偏差値で有名な私立中学に進学していった。そんな彼女がある日、ふとこう言った。

 

「蜂須賀さんは勉強をしたらいいよ。勉強、向いていると思う」と。

 

当時の私はどちらかというと勉強が苦手なタイプで、テストでもそれほどいい点数を取ったことがなかった。だから何を言っているんだろう?と思ったし、そもそも勉強に向き不向きもあるのだろうかと不思議に思ったけど、Nさんのことは信頼していたから、彼女が言うならやってみようかという気持ちになった。

 

程なくして、どの教科においてもテストで90点以下を取らなくなり、成績表の内容が一気に変わった。特に漢字の50問テストはいつも満点だった記憶がある。結果が出るまでは半信半疑だったけど、やっぱりNさんはすごいなあ、と感心したのだった。

 


 


Nさんとは小学校を卒業してから一度も会っていないし連絡もとっていない。しかしNさんは私にとって大切な友人だったし、かけがえのない存在だった。彼女がいなければ、あの大学に進学することもなかっただろうし、今こういう職業にも就いていなかったかもしれない。

 

時々立ち止まって考えることがある。Nさんが私にもたらしてくれたのはいったい何だったのだろうか、と。そして私は、そうだ、学歴と剣を授けてもらったのだ、と考えるようになった。

 

いじめられていた側だった私には、いじめられるようになった理由を正確に把握することはできないが、「何となくパッとしないこと」が原因だったんじゃないかなという自覚はあった。性格が明るくないから、場を盛り上げるようなムードメーカーにもなれない。運動オンチだし、足も遅い。容姿も整っていない。女の子らしくもない。そんな具合に目に見える「キャラ」がない、というか。イマイチどんくさい、というか。

 

あの人たちが私のことを気に食わないのも、正直なところ、よく分かる。だってそういう自分のことが一番嫌いなのは、私自身なのだから。そういうふうに考えてしまっていた。

 

そんななかで私は、あの人たちよりも勉強ができるようになった。強烈な劣等感から、いじめられるようになった原因を自分の内側に求めていた私が、「勉強ができる」という点に関しては「あの人たちよりも優れている」という自信を持てるようになった。振り返れば、それはかなり重大な変化だったように思う。

 

あの人たちが私の上履きに画鋲を入れるために早起きをするのに対し、私は新しい公式を憶えるために早起きをする。

 

教科書やノートをゴミ箱に捨てるのは、教科書やノートがもたらす価値、ひいては知識の体得が如何に人生を豊かにさせてくれるのかということを、あの人たちが分かっていないからだ。かわいそうに。

 

それに私は「死ね」よりも美しい言葉をたくさん知っている。だからあの人たちが濫用しているその言葉を、周りの人に使わずに済んでいるのだ。

 

そんなふうに考えながら日々を過ごし、「いや待てよ、そもそも何人たりとも“いじめられてもしょうがない”なんてことはありえなくない?」という真っ当な疑問を真っ当に抱けるようになるうちに、いじめはやがてなくなった。いじめがなくなったのは、私をいじめるのがつまらなくなったからなんじゃないかと思う。私はあの時、自尊心という剣を手に入れたことにより、人としての誇りを取り戻すことに成功したのだ。

 


 


一方、「書く」行為を仕事にし、それを続けていくうちに、私のやっていることは必ずしも剣を振り回すことではないのかもしれないと思うようにもなった。例えば勉強を頑張るにつれてNさんと共有できる話題が増えていったのと同じように、知識を増やしたり知見を広げたり感性を鍛えたりすることは、他者との共通言語を獲得するということでもある。また、それを曝け出す「書く」という行為にはフィルタリング機能が備わっているというか、書けば書くほど、自分に何となく合う人が集まってくるし、合わない人は寄ってこなくなるなあと実感するようになった。

 

Nさんが私に伝えたかったのは、どうでもいい他者に対するマウントの取り方ではなく、心地よい関係を築ける友人の見つけ方であって、自分が呼吸のしやすい場の作り方だったのかもしれない。

 

そういうふうに考えられるようになったのはつい最近の話だけど、ともかく、今は以前よりも殺気だった目つきをしてキーボードに向かってはいないです。隙を見せたくなくって、これまでは計算式でゴリゴリに固めた文章ばかり書いていたけど、最近は、読み手に解釈を委ねるような、余白のある文章を書けるようにもなりました。

 

 

 

 

文章を書くのは、苦しいけど楽しいです。生きてる!って感じがする。