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蜂須賀ちなみの日記帳

「エモい」という単語に対する抵抗感について

ディスクレビューやライヴレポートに限らず、学校の宿題やってるときや友達とラインでやりとりしてるときでも、稀に「何で自分からこんな言葉が出てきたんだろう」と思うときがある。
 
や、ウソを書いてるわけではないんだけど、自分のなかからそんな言葉が出てくることが予想外だった、という意味で。
 
そのなかでも特にその「何で?」が強かった文について、自分内考察してみようかなーと思ってひとつ持ってきました。どんっ。
 
 
懸命に何かを伝えようとする姿に胸を打たれる瞬間も、「時代を変えうるものを見てしまったんじゃないか」と静かに高揚する瞬間も、心臓を抉られるような悲しみを目の当たりにした瞬間も、「エモい」の一語で片づけられる風潮に違和感がある。人のエモーションの種類ってそんなに少なかったっけ。
 
 
 
 
 
ということで、テーマは「エモい」という単語に対する違和感について。
2、3年ぐらい前に、
 
A「最近オススメのバンドいる?」
私「○○ってバンドです」
A「(聴いたあとに)ああいいね、エモくて」
私(???)
 
という出来事があって。エモいって何やねん。
 
そのあとに調べたのですが「エモい」という単語は辞書には載っていなくて(俗語ですし)、「エモい 意味」で検索しても一番上に出てくるものは2002年に書かれたものだしアテにならない。
で、いろいろな人と話していくうちに音楽ジャンル「エモ(emo)」の派生、もしくは英単語「emotional(感情的な)」の派生なのかなーと感じました。
まあ「エモ」の語源も「emotional」なので、原義は「emotional」だろ、ということは「感動的な・感情的な」という意味かな、と思ったのです。
 
 
 
で、これは私の馴染み深い邦楽界隈においてなのですが、いわゆる音楽ライター業で生計を立てている方も、そうではない方も、音楽に対する感想を述べるときに「エモい」という単語を使う人があまりにも多すぎるなーというのを1年ぐらい前から感じていて。
それが何だか気持ち悪くて、冒頭に引用した文章を書いたのだと思います。
 
 
 
じゃあ、なぜ気持ち悪いと感じたのか。何に対して気持ち悪いと感じたのか。
簡潔に言うと、「エモい」と言っておけば済むだろ的な「空気」です。
 
 
 
「エモい」という単語の汎用性は「ヤバい」のそれに似ていると思います。
「ヤバい」は今となっては肯定・否定問わずに用いられるようになっているので、「ヤバい」と言っておけばプラス面にしろマイナス面にしろとにかく程度がすごいんだということが一発で伝わります。
しかしその言葉の便利さゆえに、考察の打ち切りを招いてしまう恐れがあると思うんです。
自分が言い表したい事柄をまさにそのまま表してくれる単語があるならばそれを口にしてしまえばOKなわけで、「ヤバい」は適用範囲が広すぎるがゆえに、それを言ってしまえば済んでしまうのです。
 
それと同じような現象を「エモい」にも感じます。
「エモい」と言ってしまえばそれで済んでしまう。
ある音楽に感情を揺さぶられたのなら、たとえば、
 ・どの程度私の感情を揺さぶったのか
 ・なぜ私の感情を揺さぶったのか
 ・どの部分が感情を揺さぶったのか
 ・どのように感情を揺さぶったのか
といったことを考えずに終わってしまう。
つまり、考察の打ち切りを招いてしまうわけで、それが平然と行われていることが私にとっては気持ち悪い。
感動をしたものって、時間が経ってもその人の心のなかに残りえるものだと、そのくらい大切な財産になりえるものだと思うんです。
そういうものに対して「エモい」という言葉で表すことは、その対象をおざなりに扱っているように思えてならないのです。
失礼な気がします。
 
もう「エモい」とか「ヤバい」しか口から出てこないくらい興奮した状態=興奮で思考が止まった状態だからこそ言う、というケースもあると思います。
そういうときはある意味しょうがないかもしれませんが、手軽な言葉を手軽に使ってしまうのは危険かなーと思うわけです。
考えぬいたり向き合ったりする機会を自ら潰しているようで。
 
 
 
 
 
まあ私がこんなふうに言うにしても言わないにしても、言語って時代とともに変化していくもので、こんなこと言ってたら「古い」と嘲笑われるかもしれませんが。
言語学者でも研究者でもないけど、日本語を母語にするものとして、自分が「考えること」をやめさせるような言葉は使いたくないなーと思う次第です。