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蜂須賀ちなみの日記帳

傘に殴られた

朝から雨が降っていたから、鞄の中の折り畳み傘を外に出して、ムーミンの長傘を手に扉を開けた。

 
ヒールを履いている時は家から駅まで歩いて15分かかるのに、コンタクト入れるのに手こずって出るの遅れたから12分しかない。気持ち早歩き。電車の出発時間まであと1分、というタイミングで駅のエスカレーターに着いて間に合いそうだなと安心したけど、こういう時に限って前を歩く人の歩速が遅いし抜かしていけるようなスペースもない。ホームに足を踏み入れた瞬間、プシューッと、情けない音を立てながら電車が去った。まあ、次の電車に乗って行っても遅刻しないからいいんだけど。
 
10両目に乗りたいから再び傘をさして、屋根の外に歩みを進めて。急行の止まらないこの駅を無視して行く、通過電車がやってきた。通過電車は風を連れ、つかの間の嵐が訪れる。その瞬間、傘に頭を殴られた。傘の骨は太い方が丈夫ではあるけど、細いだけでちょっとオシャレっぽく見えるんだよね、ハハハ、と選んだ傘。それは頼りなさゆえ風の勢いにふわっと連れ去られ、先ほどまで頼りないと思っていたその骨が頭に当たった。ボテッ、みたいな鈍い音を立てて。結構痛かった。
 
人は時として、思いがけないところから殴られる。例えば、自分を守ってくれる存在だと思っていた人から。例えば、そんなに攻撃力高くないでしょうとそこまで用心していなかった人から。例えば、視界にすら入っていなかった人から。
 
そんな時に何となく思い出したのが、背の順で前から2番目くらいだった、大人しい性格をし(ていると思ってい)たあの子のことだというのだから私は本当に性格が悪い。中学が一緒で、高校は違くて、大学ではまた一緒になったらしいけど学部違うしキャンパス違うから会ったことは一度しかない。高校デビューしてそれ以来コンタクトになったらしいけど、私の中の彼女の記憶は分厚いメガネで、そのレンズが白く光っていたからどんな目をしていたかあまりよく憶えていない。いや、正直それほど親しくしていたわけではないからそれもあとから脳内で自分が作り上げた像でしかないかもな。
 
受験も何となく上手く行って、部活ではリーダー的なポジションで、合唱コンではちゃっかり毎年ピアノの伴奏を担当している——「苦労もせずに何でも持っていく」私が嫌いなのだと、大学生になった彼女は中学時代の同窓生に言っていたらしい。私はそれを人づてに聞いた。まあそう言っていたこと自体は本当かどうか分からないし伝言ゲームで得た情報なんて基本信じていないが、そう思っていたことはどうやら本当らしい。だって大学時代唯一遭遇したあの日、本人に真っ向からその旨を伝えられたのだから。確かその日は健康診断で、ほとんどの学部が集まる本キャンに行く必要があったんだ。
 
私にとっては通り魔に刺されたみたいだったあの日の出来事も、彼女にとっては長年の鬱憤でトラウマでコンプレックスで。でもさ、模試E判定のドン底から血反吐吐くような思いで志望校合格を掴んだことも、そのリーダー的なポジションをやっていたからこそ陰口を叩かれていたことも、合唱コンのピアニストはオーディションで選出されるから完全実力主義の世界だったことも、あなたは知らなかったでしょう。そして永遠に知ることもないでしょう。
 
それなのに、殴られてたまるかってんだ。ああ、この傘が嫌いになりそうだ、捨ててしまいそうだ。 灰色の気持ちに塗れて視線を落としたら、傘に印刷された、ムーミンリトルミイと目があった。すっとんきょうな、丸い瞳。そうだそうだ。大阪にとあるライヴを観に行った時、「何で大阪に来てまでムーミンミュージアム……」と言いながら友人と入ったそのお店で、この傘は買ったんだった。そういえばあのあとはコナンのガチャガチャをやったんだっけ。私とその友人は遠くに出かけた時によく分からないところに立ち寄りがちで、何でわざわざ今これなんだろうと笑い合うのが定番化していた。それを思い出したらもう全部どうでもよくなったし、やっぱりムーミン普通にかわいいわ、捨てるなんて言ってごめんよ。
 
人は時として、些細な日常の記憶から救われることがあるのかもしれない。そう気づいたら、こちらに向けてナイフを突き立ててくる顔も大して思い出せないような、あるいは知りえないような誰かなんかじゃなくて、どうでもいいけど何故だか憶えている一つひとつを大事にしていたいと思えた、今朝の出来事だった。